生きること、死ぬこと、一緒に暮らすこと
思えば怖がりな30何年の人生だったと思う。
あと喪失感がすごい、という自信がある。というか過剰なのか?
自分の中でも1番の感情としてのトラウマは、ドラマを見ながらだった。
アメリカ西部開拓時代のホームドラマ『大草原の小さな家』を見ていての伝染病の回で、その中に会話として出てきた「じいさんが誰にも知られず1人で死んでたよ(うろおぼえ)」だったと思う。
今考えると、たったその一言がなぜ自分にとってショックだったのかは謎だけど。
たぶん自分の年齢としては小学校上がってすぐくらいで家族仲もよく、もちろん人並みに家族大好きっこだったからか、「家族のいない1人の人間がひっそりと死ぬ」ことがとても悲しく、恐ろしく感じられたのではないかと思う。
その後また小津の『東京物語』を中学くらいで見て、「いや仮に家族がいたとしても、人間いずれ皆死ぬんだ」というショックを覚え、私の謎教訓「どうせ最後1人なら、ずっと1人がよい」ができあがる。
とはいえそこから色んなことを経験し、結局今夫と結婚している。
たぶん「どうせ最後1人ならずっと1人がよい」という考えが、夫と出会ったことによって「とはいえ人が死ぬことは全くの0になるということではない(だろう)」と謎教訓を先に進めてくれたから結婚したいと思ったのではないかと思う。
結婚に対しても謎のネガティブな考えを持っていただけに、子供を持つことについては尚更だ。
ウディアレンの映画なんかを見ていると、本当に「そうそう!そうなんよ!」みたいな気持ちになる。彼のは極端で笑ってしまうけれど、一方冷めた目で見ると本当に生々しい表現として自分の目には映る。
自分でもおかしいと自覚していたとしても、本当に不安やネガティブに慌てふためいてしまうのだ。
イーサンホーク主演の『魂のゆくえ』を見ながらも、映画に出てきたある1人の夫を見ながら「いや本当それやね」と子供を持たない理由づけに深くうなずく。
落合陽一の妻が彼の両親に会いに行った時に母親から言われた「たぶんこの子の死因は自殺ですけど、それでもいいですか?(うろおぼえ)」というエピソードもなかなか強烈だけど、なかなか人ごとではないものを感じるし、最近先輩から見るように言われた成田ユウスケという人の動画にも出てきた「(結局)死ねばいい(死ねば大丈夫、の意だったと思う)」という感じにも「うん、そうだよね」と同感。
かと言って、「最悪死ねばいい」という考えを持っていたからといって別に死にたいというわけではないから面白い。
私と夫も時々子供を持つことについて話すことはあるけれど、この間思いつきで私が彼に「もし私たちが子供を持つとしたら『この世は地獄だ、どこへ行っても地獄だ』ということをまず教えよう!」と言ったことがあった。
すると、彼は「それは子供たちから『この世は地獄か?』と聞かれたら『YES』と答えるものであって、わざわざ自分たちから言う必要はないと思う」と言っていて、目から鱗だった。
なんだろう、自分と違う人間と共に生活するのは、本当に日々発見である。
たぶん誰かと暮らすこと、それは人間でも人間でなくても、あるいは生きてなくてもいいのかもしれないが、自分とは異質の存在と一緒に生き、影響を受けることが永く生きながらえるコツなのかもしれない。
特に私みたいな自分の考えに閉じこもりがちな人間には。
店舗での本選び、とは言ったもののおみくじ
最近は引越しをよくしていたというのもあり、本は基本実家にためておくもの。
あとは引っ越すに応じて、その時の気分で本棚ができあがるという感じである。
というのもあって、自分の本棚作りの熱意もそこそこ、全集などについては「永住の地がいつか見つかった時に手を出すもの」という気持ちでいる。
引越しを繰り返し、生まれ故郷からどんどん離れていっているというのもあるし、万が一海外にでも行くことになったら、またとりあえず実家に送ることになるので、その手間を思うとふわふわした学生時代の頃に比べて、どうせ買えやしないしとそこまで書店にも行かなくなった。
最近はというと、楽天ポイントとクーポンを使って、ラクマで限りなく0円に近い買い物をするのがちょっとした楽しみくらいである。
これもほぼ無料というので、自分の趣味に合うものよりもCDのジャケ買いみたいに、なんとなく気になるなくらいの自分にとって新しいものを読むようにしている。
と、普段はみみっちい(?)生活をしているが、時々謎にどさどさっと本を買うタイミングがあり、1万とか使ってしまう日もあるにはある。
基本は古本屋で、しかも文庫の買い物なので、3千円も使えばいいところ。
そんな自分にとっては1万に近い店舗での買い物は、なかなかに「おお!」である。
そして、今日は1万ではないにせよ、久しぶりに脈絡なく買い物をした。
結果としてこの3冊を買ったのだけれど、ここに至るまでの頭の中の出来事が面白かったので、ちょっとここに残しておこうと思う。
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①そういえばファブル、どれくらいコミックス出てるんだろ、、、
(最近アプリでよく読んでいる)
→見つけられず
②そういえば宝石の国も最初の何巻かしか読んでない、今日は大人買いしてもよい気分だ、、、
→見つけられず
③まあいいや、千葉雅也のはいつか買おうと思ってたから、とりあえず買うか
→DONE
④そういえばカフカたぶん自分に合いそうな気はしてたけど、たぶんちゃんと読んだことなかったな、、、最初だから安い短編集みたいなのでいいか、、、岩波で2編入っているのと20近く短編入っているのがある、、、500円と800円の差か、、、300円近くの差で結構厚さが変わるな、、、なんとなく800円弱の方いっとくか
→手には持った
⑤そして再び宝石の国を探すも見つけられず、ぶらぶらしていたら日出処の天子を見つけ、いやこれは家にあってもいいやろ!という今まで調べたこともなかったくせに手に取る
→DONE
⑥再び宝石の国を探すも、今度は諸星大二郎が目に入る。そうかこれも800円弱か、、、ここでやや偏見だが、なんとなくカフカと諸星大二郎を比べた時に「もし古本屋で買うとなった場合、諸星大二郎を中古で買うのには勇気がいるな、その点カフカはまだ中古でも気持ち的にハードルが低い」というところで、新品を買うならと諸星大二郎を手に取る
→ここでカフカと諸星大二郎を持ち替える
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買ったのは、たった3冊だが、この不思議な思考回路は確かに店舗ならではという感じがする。
しかも結局、宝石の国を見つけられなかったというのがミソだ。
この不自由さもなんだか愉快に感じてしまう自分の貧乏性さ、なかなかである。
これは本当に一種の本との対話というか、本との奮闘バトルですね。
これがずっとだとなんだか面倒だが、2〜3ヶ月に1回の気の迷いくらいだったら、全然OK。
全然OKすね!
本を読むなどして英語を付け焼き刃しているところ
来月10月に、コロナぶりの海外旅行に行く。
前の日記にも書いたけれど、今年わたしは結婚し、それに伴ったちょっとした挨拶まわりのような旅行である。
うちは国際結婚で相手は英語圏のため、英語しか通じない環境に身をおかなければならず、なかなか気が乗らない、でも避けては通れないという旅行である。
普段ダラっとしていても、一応1人の成人女性として確かに「挨拶は行くべきだろう」という判断のもと。
彼とわたしは不思議なものでちょっとした英語と日本語でどうにかなってしまう。
故にわたしの英語は本当に杜撰なまま来てしまい、怠け癖のある性格の自分としても「これはちゃんと英語の準備をしておいたほうがよい」という認識があるほど、お粗末な感じの英語なのである。
そんな英語の勉強というか、とりあえず英語に触れる機会を増やすという名目で、最近やっているのが以下ふたつ。
①『赤毛のアン』音読(ANNE OF GREEN GABLES)
②海外ドラマ『TWIN PEAKS』視聴
今朝も赤毛のアン朗読しながら気づいたことがあった。
赤毛のアンは過去に2回は読んだことがある気がするし、内容も大枠は覚えている。
とはいえ読みながら「ああ、こんなことありましたね」という部分もあるわけで、今回は冒頭のアンのマリラに対する自己紹介のくだりを見ながら、「ああ、そういえば昔もそんなこと言ってましたね」思い出状態になった。
昔、赤毛のアンを読んでいた頃というのは、日本人の私が時代も違う、全くの異世界の物語・神話を読んでいるという感覚だった。それは「同じ人間である」みたいな共通認識を飛ばした読み方とも言えるかもしれない。
しかし大人になった今改めて読むと「結構、この子よく喋るよな、、、」という感覚。
しかも自分のアンという名前は「E」の方のアンだなんだというくだり。
あとコーデリアと呼んでほしいだのなんだの、作り話とわかっていても読んでいると「おお!」となる感じ。
思えば小さい頃というのは、あまり比較対象も持たないし、他者に対しての「めんどうくさいな」みたいな気持ちもそんなになかった気がする。
それが今赤毛のアンを読むと、確かにうっとりする反面「にしても、この子よく喋るな、、、」という感想もそれなりに抱くし、お笑い芸人がよく「なにやらワーワー言うとりますけども」でまとめられる類のものだよなという気づきがあって面白い。
たぶん自分自身がマリラに近づいてきつつあるのかもしれない。
あとは単純にアンもマリラも、そして作者のモンゴメリも同一の同じ人間として見るようになり、冷静にツッコミを入れることができるというのも関係していると思う。
こう書くと英文をすごい理解して読んでいるような感じがするが、霞を食うような読み方でしかなく、記憶の片隅にある赤毛のアンを穴だらけのケープごしに透かし見ているような感覚に近い。
まあやらないよりはいいだろう、というので4〜5日続けてみているが、これがどれだけ役に立つのかは1ヶ月先の海外旅行を持ってして知るところなのかもしれない。
一方、『ツインピークス』視聴についても今の所は為になっている感覚はない。
しかし1個だけ発見だったのは、ツインピークスの奇妙さに改めてデヴィッドリンチについて知りたくなり、時々インタビュー動画を見るようになったことで、彼の英語がゆっくりで聞き取りやすいというのを知ったことだった。
私のパートナーはお国柄、割と早い英語らしく、それと比べるとやたらのんびりしているように聞こえるのである。
それとはまた別に、まわりでよく聞く魔女スターホークのことも思い出し動画で少し探してみた。彼女もまた非常にゆったりとした喋り方でとても驚いてしまった。
その後に自分の好きな作家カポーティのインタビュー動画を探してみると、この人もまたゆっくりめ。
驚いて彼に「私の気になるアメリカ人はみんな話し方が遅くて聞きとりやすい!」と言うと、「まあアメリカ人喋るの遅いよね、あとカリフォルニアは更に遅い」とのこと。
確かにこのスピードの違いについては、ニューヨークとカリフォルニアの対比とかでよく見る気がしないでもない。
良し悪しは置いておいて、こんな自分でも遅い英語なら割と聞き取れるんだなという、ちょっとばかしの自信をつけたのであった。
直接的には関係ないかもしれないが、ツインピークスからデヴィッドリンチのインタビューへ飛び、そこから少なからず英語学習のモチベーションを上げることができたといってもいいのかもしれない。
まああと、私自身が日本語であっても話すスピードが普通、もしくは遅いのだけど、なんだか会話に乗っていかないと置いてきぼりになり、自分の意見がないがしろにされるかもしれないという不安感があるにはある。
それが英語だと理解自体も遅ければ出力はもっと遅く、その不安感はなおさらなのだ。
でもこの「アメリカ人の話し方が遅い」を受けて(確かに例がなかなかピンポイントである)、ややホッとしたのと、一角の人間というか自分で何かしらやっている人間であれば、例えゆっくりとした喋り方であっても相手の方から自然と耳を傾けてくれるんだなという気づきが改めてあった。
というか、この「自分で何かしらやっている」ということの方が、語学学習よりももっと難しく時間と労力を要する部分なのかもしれないけれど。笑
自分のような、日本語でさえ話すのが遅く、結論を出すのが遅い人間は、やっていることで勝負するしかなく、英語で討論できるようになる道を極めるより、話は遅くとも行動伴った上での説得力を持たすという方向性の方が活かすべき選択肢なのだというのが現在の結論。
しかし、改めてテーマである結婚報告がてらのご挨拶について考えると、討論もする必要もなければ、別に説得力を示す必要もないというのが面白いところである。
この無駄な日記、思索がいつか自分の糧になればいいと思う。
話かわって、最後にこの『赤毛のアン』の文末の脚注というか参考ページを見てほしい。
全体に対して20%にはなろうとしているBACKGROUND欄。
す、すげえ、、、!
きのう日記はじめた
新型コロナウイルス、2020年の春節あたり、、、に「コロナこわい!」という退っ引きならなさから仕事をやめた。
仕事をやめたのは2020年4月だったか。
自宅でちまちま情報を切り貼りするだけの記事執筆みたいな仕事をやり始め、そうするとカレンダーというのが本当に機能しなくなる。
機能しなくなるというか平日もなければ休日もないし、もちろんイベントも何もない。
「こんな伸び切ったゴムみたいな時間って虚しいな」という体感。
そして「やっぱ人間、時間の区別はいるんだな」というちょっとしたシュン。
その退屈しのぎに、2020年4月から1日1枚タロットをひくという遊びを始めた。
さらにその1枚のタロットについての日記も書き始めた。
とは言ってもタロット分析などではなく、概ね日々の雑記にオマケ程度のタロット結果と日常のリンクしているような気がするもののメモ。
その日の体力の有り無しが一目でわかる手書きの日記である。
しかも日によっては力尽きて当日中に書けず、翌日に昨日の日記を書く割合が、2〜3割に食い込むという適当なもの。
とはいえ面白いもので、現在2022年8月まで、その1日1枚タロット日記は続いていて、2021年初めての確定申告を済ませ、2回の引越しをし、外でまた仕事を始めているのあった。
今年については結婚をし、しかも国際結婚という恐らく日本人との結婚と比べると落ち込むほどの面倒くさい手続きを終えた。
そんな今もずっとタロット日記は続いている。
しかし怠惰な性格というのが祟って、自分で書いといてなんだが、本当に頭の中にぼんやり浮かんだものをそのまま羅列しすぎているのと、そのいいかげんさが手の出力にも表れてしまって、ものによっては「何を書いているのだろうか?」状態。
むしろちゃんと日記のていをなしているもののほうが少ない。
その一方で時々頭に浮かんだ「これはメモしておきたい気がする!」というものはTwitterにダダダーとメモすることもしているが、Twitterの性質上なかなか細切れで、まとまった体感がない。
それでも必要性を感じなかったからブログはやっていなかった。
しかし、たまたま一昨日見た「花束みたいな恋をした」で雨宮まみさんを思い出し、そこからふと久しぶりに雨宮まみさんのブログをダーっと読んだ。
ついでに二階堂奥歯さんを思い出したのでそれも読み始め、結局明け方になっていた。
思えば中学だか高校だかではエルレガーデンの細美武士さんが好きだったので、毎日ブログをチェックしていた、気がする。
あと銀杏BOYZの峯田(下の名前まで出てこない、、)さんの日記の文庫も持っていた。
どちらも内容は何も覚えていないけれど、その夜のその場しのぎくらいにはなった気がする。
このブログを書いていたであろうこの人は、少なくともこれを書いていた時は1人でうんうん書いていたのかなあ、という謎の親密さ、孤独の共有というか。
そういうところの安心感なのではないかと当時を振り返る。
そんなこんなで
「タロット日記書くのはいいけど、時々読み返して役立つところもあるけど概ね読みにくい(自分の字が)」
「ブログ、長い文いいな」
「Twitter、イーロンマスクになってからシステム的に更に面白くなくなったんでないか?」
「130字がどんどん下にいくって見づらいわ」
という色々な事情、思いつきが重なりブログを書くに至った。
noteなども以前は使っていたけれど、こういったら敵を作りそうだが、今まで面白いと思うもの、面白いなと思って何度か思い出すようなものを見たことがないというのが選ばなかった理由。かといってHatenaBlogでそんな死ぬほど面白いものをお前は読んだのか?と聞かれたら、それも全く当てはまらない。
またやるなら、少なくともnoteではないというのだけが頭にあったという感じ。
とか言いつつも引き続きタロットは引き、自分の創作のためのメモなどは続行しているので、自分もつくづく書くの嫌いじゃないんだなという感想。
ただ書いているうちに、「ただただ書く」という行為は意外とやり続けられるなというのがあって、そこの楽しさを膨らましているような感じ。
毎日書き続けられるかはわからないが、タロット日記、時々のTwitter大盛り上がり、から外れるような時の気分の時はここに書いていきたい。
しかし本当に西日がすごい。
うちのベランダからは太陽が山に沈んでいくのが見える。
8月26日17時過ぎ、白と淡いクリーム色みたいな太陽。
Spotifyの邦楽ミックスは、はっぴいえんどの「風をあつめて」を流している。
この曲はいつ聴いても、いつも同じ気持ちに収まるなあと思う。
好き嫌いではなく、こういう音楽を聴いて、しっくりくる感じというのは、1日を構成する中でそこそこ大切な要素であるように思う。
今暑くていいかげんカーテンを閉めたが、風も遮断してしまい、これはこれで暑い。
とか書いていたら「風をあつめて」が終わり、マイカルブテ(そんなに聴いたことない)「Moon Flower」が流れてきた、いい曲ですね!
きらきら!
そうそう、そしてタロット日記をその日の翌日に当日のような気持ちで書くこともあるので「きのう日記」と名付けます。
そうかこれで2000字超えかあ、、、