きのう日記

ときどきしれっと昨日のことを今日みたいな感じで書く

起き抜けの矢川澄子

ひとりで洗濯物を干しながら、PCで刀剣乱舞のゲームをしたり、音楽を探して聴いたりするのが好きだ。たぶん「〜ながら」というのが好きなのだと思う。
平日ならば、夫がリモートワークをしているため完全に1人で洗濯物干しというわけにはいかない。夫がいると、少し余裕のある休みの朝は「コーヒー飲む?」と言って、いそいそコーヒーを淹れたり、「鍋でミルクティーを作る」といって、ゴソゴソとわりかし本気のミルクティーを作ってしまう(でも朝食は作らない)。

しかし今日から夫が2泊ほど外に遊びに行ったため、私はいつにも増して「〜ながら」に熱を入れることができる。というか、注意散漫すぎて何かをやっているそばから別の何かを思いつき、そっちにかまけているうちに元々やっていたことを忘れてしまうような脳の仕組みになっている為、同時進行の何かを思い出したり忘れたりしているうちに結果として「〜ながら」の体をなしているとも言える。

最近、市電の定期を作り図書館に通い始めた。そこで借りてきた矢川澄子のエッセイを最近ちょこっとずつ読んでいるけれど、今朝も矢川澄子で始まった。
夫は朝早い便で旅立ったため、ダラダラと昼過ぎに起き出す。昨日のご飯でお茶漬けを作って食べて、ぼーっとしているとお昼に脱毛の予約を入れていたことを思い出し、それまでに洗濯物を干さなければととりあえず洗濯物をまわすも、「やっぱりゆっくりした気持ちで洗濯物を干したいかもしれない、、」と予約をキャンセル。

この脱毛の予約にしたって、3年前勤めていた場所に衣装的なものがあり、ファッションブランドだったこともあって、夏場は薄着でさすがに自分の処理ではアレか?と思って、会社からお金が出るわけでもないけれど「とりあえず脇だけは?」と思って、始めたのである。

根がせこいというかケチなのだけど節約の方に向かうというよりは、「通い放題」みたいなものになるだけ沢山通おうという方向性のケチであるため、この脱毛みたいなものも通い放題というコースにしたのだった。そうこうしてる間にコロナが始まり、元々の目的であった「夏服に合わせた脱毛」も意味なく退職、そして今の夫と一緒に住み始めるというのでお引っ越し。引っ越し先にはその脱毛サロンがしばらくなかったため、「またいつか東京遊びに行った時にでも?」と考えている間に支店ができたため、1年ほどのブランクを経てまた通い出して現在1年たったくらいだろうか。

東京で1年弱通った脱毛もまた振り出しに戻り、また1からである。そういうわけで「せっかくお金を払ったんだから」根性で通っている。今日の用事と言えば脱毛と図書館に行くくらい。そして本を読み終えてなかったので、お昼の脱毛を夕方に変更し、本を読みながら気まぐれで洗濯物を干す。途中で紅茶も飲みたくなり、なかなか夫に出すのは「もったいない」と思ってしまう(失礼!)高い紅茶を淹れて飲む。

夫がいるとゲームしながらの洗濯物はできても、本を読みながらの洗濯物干しは、なかなかやりづらい。何故だろう?わからない。私の中で色んな「ながら〜」があるが、「本を読みながら〜」は1番非生産的で人に見せられない姿だと思っている部分があるのかも。

そして矢川澄子、である。朝ストーブの前にしゃがみながら、澁澤龍彦のくだりになんだか居た堪れなくなって読むのをやめる。読み進められない。
矢川澄子、、、私にももちろん少女というのか、純粋・傷つきやすさと言ったらよいのか、そういう部分はあるけれど、内にずっと向かうというよりは誰しもが持つそういう部分に必要以上に敏感になった挙句、勝手に「この人の少女を守らなければ!」みたいな不思議な正義感となってあらわれてくる方の部分が強くなってしまった。母性とも違うんだけれど、ある程度たくましい。

そうそう、こういう風にぼんやりしながら。しまいにはこうしてブログを綴る始末。
実はあと3割くらい洗濯物が洗濯機に入ったままだ、ふう恐るべし。
いつの間にやら夕方の脱毛もキャンセルしてしまいそう、やれやれ!である。

実は矢川澄子以外にもあと2冊手付かずの本があるのに、もう昼の2時。紅茶も2回目を淹れて「やはり1回目がおいしい、、、」とぼーっとしている。

しかし、こういうぼーっとした時間、ぼーっとした洗濯物干し、ぼーっとした読書、とても贅沢な気持ちになる。